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八重桜 in 袖ヶ浦公園

今まで、袖ヶ浦公園の桜は、池の周りのソメイヨシノだと思ってました。八重桜が、あるのは、知ってましたが、葉っぱが多くて、綺麗には、咲かないという、先入観がありました。4月中旬でしたが、そういえば、八重桜があると思い、袖ヶ浦公園の八重桜を、見に行きました。

1.八重桜

八重桜

八重桜をみると、葉はありますが、花が極めて大きいです。葉が目立たないです。これまでの先入観では、葉っぱの中に花があると思ってました。しかし、この様に、この時期、葉は目立たないように、花を引き立てております。

2.堤防からの展望

堤防一面に、八重桜があります。桜の下からは、多少、葉も見えますが、遠方の上からは、花しか見えません。
花の咲いている、濃度が、濃く感じます。

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上総の介暗殺される!

現在、鎌倉殿が放映されております。鎌倉時代は、平安時代です。平安時代に、東国、坂東は、平氏の時代です。第50代の桓武天皇の時代に、上総は、親王が国司を務める、親王任国であった。桓武天皇の系列の高望王、平の高望が、上総に新任されている。その子孫が、今回暗殺された、上総の介広常である。鎌倉殿、鎌倉幕府の協力者であったが、頼朝の陰謀に、引っ掛かり暗殺さてた。上総の介広常は、力がありすぎた。

ところで、上総の介広常が暗殺されつ250年前に、平将門が、新皇を名乗り、乱を起こしている。
ここで、桓武天皇の子孫の平の高望、将門、広常の関係をまとめてみた。

1.桓武天皇の系列

桓武天皇は、第50代の天皇です。その子供に、葛原親王がおり、その子供に、高棟王、高見王、兼高王がおりました。
高見王の子供が、高望王です。この高望王は、892年から896年まで、上総の介として、上総の国府、今の市原に赴任します。

2.高望王の4人の子供

4人の子供は、良文、良将、良兼、国香です。ここでは、良将の子供、将門について、述べたい。

2.1平の良将

良将は、当時問題であった、俘囚との交渉を担当して、上手く解決して、高く評価され、鎮守府将軍に抜擢されました。当時上総には、市原と、長柄に俘囚の里がありました。良将は、長柄の俘囚の娘と結婚しました。この相手が、桔梗の御前です。
陰陽師に占ってもらうと、「賢いが、成長した暁には、武勇優れた天下の反逆者になる」といわれ、母、桔梗は、良将から、離されることになりました。流されて、東金市の御門で、誕生しました。後の将門です。この企てには、叔父の国香の悪だくみがありました。将来の争いの種になります。その後、国香叔父の勧めで、都の修行に出かけます。京都では、叔父の良文より、兵法の等の指導を受けます。

2.2将門の怒り

都で、8年を過ごして、929年に相馬に帰ります。この時、将門の領地は、叔父国香、良兼に奪われておりました。もう一人の叔父、良文に相談しましたが、話し合うように諭されましたが、戦法は教えてくれました。

承平5年(935)、領地問題から、戦いになり、叔父、平の国香を殺害しました。承平7年(937)には、平の良兼、平の良正(良兼の弟)との戦いになり、同族間の間の戦いの激しさを増しました。

天慶2年(939)藤原の玄明が、税金の不払い問題で常陸の国司と対立し、将門に助けを求めます。将門は、玄明を守り、常陸国府を焼き払い、印綬を奪いました。印綬は朝廷が国司に与えた証明書です。これは朝廷から、常陸の国を奪い取ったとこになります。これにより、将門は、朝敵になります。

藤原の玄明は、税金を、人民い分け与えておりました。将門は、上総、下総、安房、下野、武蔵、相模の国から、同じように印綬を奪い、各国司を占領して、新皇と名乗りました。
朝廷は、将門、追討令をはします。

これに応じたのが、以前から将門に恨みを持っていた、平の国香の息子、貞盛と下野の国の豪族藤原の秀郷です。
将門は、940年、この戦に敗れで、亡くなりました。将門には、「坂東の独立」「という理想があったのです。

この流れは、良文流平氏に、引き継がれます。上総の介、広常などに、受け継がれます。

成田山新勝寺は、将門の乱鎮圧のために、朱雀天皇が、空海にたので、創建されたもので、将門の子孫、家来は決して思いりしないそうです。

国香の息子貞盛の子孫が178年後に現れる平の清盛です。

2.3両総平氏平の忠常の大乱

忠常は、祖父は、平の良文、良文流平氏の祖である。母は、将門の二女である。上総権介、下総権介を任命されおりました。

長元元年(1028)忠常が安房の国司を殺したことで反乱が広く知られるようになりましたが、忠常に、地元の支持があったことから、収奪を強める国司に対する、紛争で会った可能性がある。同年6月に、朝廷は、忠常追討の宣旨を出すとともに、追討使に平の貞盛の子孫平の直方を任命しました。

しかし、忠常は、戦う気はなかったのですが、直方は忠常から、関東地方の覇権を奪いたいと考えており、忠常と直方の私的側面があり、戦いは、激化してゆきました。

平の直方の、追討はうまくゆかず、朝廷は、新しく清和源氏の源の頼信に追討を命じました。長元4年(1031)に忠常は、戦わずして、頼信に降伏しました。
忠常の乱により、3年間で、耕作地は、ほとんどなくなった。

2.3両総平氏の復興

亡国と言われた房総地方の復興を担ったのは、平の忠常の子孫でした。彼らは「開発領主」として開発した土地を、「根本私領」として、その地を名字として名乗る在地領主となってゆくのです。こうして、在地領主の私領として中世の郡や、郷が成立したのです。
上総の国。下総の国に勢力を広げたのが忠常の子孫は、両総平氏と呼ばれます。忠常の孫の平の常兼は下総の国に勢力を伸ばし、その弟の平の常晴は上総を地盤としました。
常兼は、千葉常重です。その子が、千葉常胤です。常晴の孫が上総の広常です。

今回、頼朝に暗殺された、上総の介広常は、この人です。今から、840年前の話です。

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令和4年の袖ヶ浦の春

コロナの蔓延防止法水泳はできず、散歩を過ごしてましたが、気が付けば、3月も終わりに近づいております。袖ヶ浦公園の桜祭りも、3月26日、今日になってました。例年は4月に入ってからでしたが、公園の桜は、終わってました。葉桜見物になってましたが、今年は、適当なときと思います。花を見た順に記述してみたいと思います。

1.梅の花

2月の中頃から、公園の梅林に梅の花が咲きます。

梅の花は、確かに、春が来たなーという感じはします。袖ヶ浦では、早いところは、1月の初めに梅は、咲きます。

これは、私の畑の近くで、2月頃にはいてます。南向きなので、しかも北側は山に囲まれているので、特別に早いようです。

2.河津桜

気が付くと、袖ヶ浦にも、個人が、河津桜を植えております。私の畑の隣にありました。これも、2月には咲きます。

この近くでは、五井の養老川の堤防に植えてあるのが、大きいです。もともと、伊豆半島にあった桜ですので、房総半島とは、気候が近いのだと思います。

3.あんずの花

あんずの花です。是に実がなり、毎年、ジャムを作ってます。この種から、杏仁の元を作ります。
あんずの花は、桜の花より、綺麗がもしれません。

昔、ブラジルのクリチバに居た時、友人の意にに招かれたとき、あんず畑を見ましたが、大変綺麗でした。

4.こぶし、木蓮

木蓮の蕾の時代。3月初めです。
こちらは、こぶしです。木蓮より早く咲きます。袖ヶ浦を走っている平成道路は、こぶしが植えられております。3月初めには、咲き始めます。
この時期、木蓮は、こんな感じですが、木蓮も場所、種類で、結構花が開いているのもあります。

5.千葉と言えば、菜の花

袖ケ浦公園の上池の周りには、3月20日ごろで、こんなに、菜の花が咲いてます。周りの桜は、蕾です。

6.桜

袖ケ浦公園で、一番早く咲くところで、なんと北側の駐車場です。裏側が山になっており、
南向きです。
駐車場を山側から見る。梅も咲いてます。
袖ヶ浦公園の桜で、私が一番好きなアングルです。
花見広場です。ここで、弁当を食べる人が多いですが、今年は、禁止のようです。
上池からの桜、一周1.6kmです。桜並木が続きます。
桜の間から。
菖蒲池から。
上池の堤防から。ここの桜は、八重桜で、もう1か月くらいで咲くかも?
公園の隣の民家の桜です。姿が素晴らしいです。毎年、ここで、花見をしてますが、うらやましいです。

3月の終わり、桜のシーズンも終わりです。次は、菖蒲の季節です。

反省ですが、glogも付きになってます。もう少し増やしたいと思ってます。

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源頼朝 in 袖ヶ浦

令和4年の1月から始まった、NHKに大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は頼朝、伊豆の石橋山の戦いで敗れて、房総半島に、逃げていてから、身近になってきました。京都では、保元平治の乱があり、最終的には、源氏が破れ、頼朝は、伊豆になされて、20年辛抱しますが、以仁王の反乱により、頼朝自身が再起をしますが、石橋山で、大庭景親に敗れて、安房の国に逃げてきました。
今の鋸南町竜島、保田と岩井の間、鋸山の南側、日本寺の注ぐ近くです。伊豆の真鶴から、船に乗り、三浦半島を抜けて、東京湾を渡ったのです。1180年の8月。夏だから、寒くはないか?

この竜島から、房総半島の豪族を、味方に付けで、鎌倉を目指します。一宮の上総常広、千葉の常胤らを味方の、鎌倉に上がりました。

その時に、道のりが、色々なところに残っております。単なる、言い伝えもあるようですが、そこまでは、精査してません。コロナの中で、私が歩いて、気になったところを、記述したいと思います。

1.袖ヶ浦の鎌倉街道

袖ヶ浦公園の上池の放流口の近くに、近くの案内図があります。
この案内図に、昔から伝えられる鎌倉街道が入った、地図があります。

袖ケ浦市の説明の上のところに、鎌倉街道があります。袖ヶ浦公園の上池から右に伸びてまして、上の市原市の下の境に続いております。市原市の中に、後で、説明する、頼朝と関係する、御所覧塚があります。その近く200mくらいのとこに、万騎坂があります。
この鎌倉街道は、君津市、木更津市から、袖ヶ浦市、三作から、わかっているようです。
野菜畑の中を、2kmくらい進みます
次の野田というところ、交差点のところに、鎌倉街道の説明があります。左側下に、源頼朝北上経路の図があります。
ここも、畑の中を真っすぐ進みます。県道300号に市原方面に進み、39ゴルフ場の看板を左に折れると、辻の通りに付きます。そこが、野田から次ぐく、鎌倉街道です。

2.源頼朝の北上経路の鎌倉街道

頼朝が、1万騎を集めて、閲覧した、御所覧塚です。鎌倉街道に入るとすぐ、目に入ります。
御所覧塚です。
この道路が鎌倉街道です。君津、木更津、袖ヶ浦公園方面です。公園お先に三作があり、ここに、頼朝は、1180年の9月15,16に表れたそうです。この道の真ん中が袖ヶ浦と市原の境界だそうです。御所覧塚は市原側。
市原をみる。ここから、200mぐらい先に、万騎坂があるそうですが、今回は見逃しました。地元の人にも聞いてもわかりませんでした。

3.袖ヶ浦に入った、頼朝軍はこの道のほかに、海への道を頼った。

昔からある土地ですが、飯富から、蔵波、久保田、代宿を言う道があったそうです。この途中に昔から、鎌倉街道と呼ばれている道が、あります。

浜宿といところに、山道があり、昔から、鎌倉街道と呼ばれております。
この道は、昔から、鎌倉街道を言われておりまっした。昔から、お墓は、道の近くに作ってましたので、私の祖先の墓は、この道にあります。

4.旗立の台地

この海岸よりは、台地になってます。昔から、「ハッタテ」の下と言ってましたが。「旗立て」だということが、わかりました。

頼朝が、千葉の方に合図を出したとも。昔、川鉄等の工場がなかったころは、筑波山まで、この辺の台地からは、見えました。
東京の国会議事堂も見えましたの。100年前は、もっと見えたのでは?

水は、東京湾、右は埋め立て地。台地の下は旧16号と内房線が入ってます。頼朝時代は、台地の上を通ざるを得なかったのでは?
台地は、海岸に沿って、道が走ってます。この台地は、昔、のりの漁師は、この台地を目印に、帰りの海岸を探したのでは?海から見て、台地の一番千葉寄りのところです。「ハッタテ」は、海は深いと言ってました。港でもあったのか?

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山野貝塚

袖ケ浦市には、12か所の貝塚があるそうです。その最大なのが、山野貝塚で、全部の発掘は、終わってないようです。このコロナ騒ぎで、市の設備の水泳プールは使えず、健康のために、ひたすら、市内の散歩をしております。そのコースもできるだけ、人に合わないようなコースを選んでおります。その中で、この貝塚は、繁華街からは、多少離れております。我が家から、歩いて、1時間近く、携帯の歩数計で、6000歩くらいのところです。往復で、2時間くらい。もはや、早くは歩けないので、ゆったりとです。

千葉県は、貝塚が多い県のようです。全国で2000か所くらいあって、700か所は、千葉だそうです。私が知っている貝塚は、大森貝塚ですが、千葉では加曽利塚貝塚でしょう。縄文時代4000年前くらいの貝塚だそうです。

1.山野貝塚

山野貝塚の入り口にある、案内です。袖ヶ浦の山の中というところか?袖ヶ浦公園の近く。
徒歩で、行かないと、車の交換が、大変なところです。水道の配水所があります。団地のはずれの蔵波中学校から、1kmくらい離れたところ。

近くには、古墳とか、貝塚がたくあんあります。
ここが、山野貝塚。単なる、野原です。この下が、貝塚になっているらしいです。
山野貝塚の案内看板。

山野貝塚は、縄文時代晩期、4000年前から2300年前の貝塚だそうです。


この時代の房総半島は、現在の形と異なってます。2万年前の氷河期が終わり、6000年前に温暖化が進み、縄文の海進という、海水面が13mくらい進んだそうです。その姿です。山野貝塚は、海岸の先端にあたことがわかります。東京湾は、皆潮干狩り場だったのす。
この貝塚の入り口の道路のわきには、貝殻が沢山見えます。海岸から、4kmくらい離れた山の中ですので、本来なら、貝殻などは、見当たらないところです。しかし、袖ヶ浦には、こんなに大きくはありませんが、こんな風景は、沢山なります。最近捨てたとすると、貝が白すぎます。

貝塚は、食糧の貝のほかに、動物の骨とか、土器も捨てられていたようです。多分、快適なところでは、無かったはずです。ハエもいたのでは?したがって、集落のはずれにあったか?素人でわかりませんが、私は、想像します。

2.縄文時代とは、

以前に、チバニアンについて記述しましたが、その時に、地質時代を自分風にまとめました。と言っても、単に、情報を集めただけですが、再度、掲載します。

この時代が終わると、弥生時代で、稲作が始まります。それ以前に、東京湾沿岸は、人が住んでいたのです。袖ヶ浦の高台の畑などを、はぎ取ると色々は、住居後の遺跡があるようです。何度か、発掘現場を見たことがあります。

3.周りの風景

この写真の丘の上に、山野貝塚があります。前は、田んぼですが、周りは、小高い丘陵になってます。平たいところは、多分、昔は海。と言っても、浅瀬の海だったのでしょう。
ここから、貝を集めたのでは、と思います。房総半島は、何度も、富士山の噴火灰を受けいる、はずで、関東ローム層を形成してます。そのために、落花生、サツマイモが取れます。
袖ケ浦公園の展望台から、東京湾のに入り口側、ここからは、木更津、君津方面を見るとこの下は、海だったと思われます。平野の向こう側は、やはり、小高い丘陵になってます。
ここが、海だったとすると、静かな入り江ではあなかったか?浅瀬で、貝は、一杯取れたでしょう。
丘陵の台地は、火山灰で、さらさらした、土です。今は、大根畑になってます。
キャベツ畑です。
貝塚の周りの畑には、貝の姿もありません。
余談ですが、田んぼの中に、住宅がいっぱい。丘陵の台地も、団地だらけです。奥に見えるのが、君津製鉄所です。

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袖ケ浦公園冬の夕方

令和3年12月18日(土)16時過ぎに、袖ヶ浦公園を散歩しました。少し寒くなったので、冬鳥が集まるころと思い、夕方散歩することにしました。さすがに、人は少なく、静かでした。
15時過ぎには、月が出ておりました。渡り鳥の数は、何となく、昨年よりは、少ないような感じがします。これだけの渡り鳥の数は、数えるの能力は、私には、ありません。

私が、子供のころ、70年前ごろ、私の実家は、東京湾の海岸にありました。台風の時は、波の音が、聞こえました。普段は静かな海でした。冬には、多量の鴨が、東京湾を埋めておりました。今見る、こんな量、数ではありません。海が、真黒に感じました。それを不思議とも思いませんでした。自然とは、こんなものと思ってました。あの渡り鳥は、どこへ、行ったのか?

1.夕方の富士山

房総半島は、高い山がないので、どこからでも富士山が見えるようです。私の町からでも、隙間があれば、富士山は見えます。
朝夕は、東京湾越しに、富士山は見えます。特に夕方は、太陽が沈む、方向なので、綺麗な夕焼けを一緒に見えます。朝は、反射で、冬は、雪に覆われた、富士山が見えます。東京湾に浮かんだ富士です。
18日は、公園の近くの駐車場の隙間から、見えました。もう少し暗くなると、見えなくなる、寸前でした。17時半ごろです。
本当は、海岸の臨海公園にでて、撮影すれば、もっときれいです。

上手く、写真になりませんでした。東京湾から、4kmくらい離れてます。
スマホでは、こんな程度?

2.渡り鳥の数

11月初めよりは、多くなったと思います。渡り鳥は、北からくるものと思ってます。八戸にいたころ、近くの池に行きましたが、狭い池に、白鳥も来ておりましたが、さすが千葉は、来ないようです。

夕方、渡り鳥は、水辺に集まるようです。
寝るには、早すぎると思います。

3.夕方、17時過ぎ、月が出てました。

まだ、明るく感じたのですが、水面に、月影がありました。

こんな写真を撮って見たいと思ってました。房総半島の冬は、晴天の日が多いです。ただ、風はあります。風がなければ、冬でも小春日和です。

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晩秋の袖ヶ浦公園

令和3年の晩秋、コロナで人混み遠慮して、散歩するには、わが町では、袖ヶ浦公園です。毎年、Blogで袖ヶ浦公園を紹介してますが、10月の初めから、終わりにかけて、公園の池に、渡り鳥が、来始めました。まだ、少ないのですが、1月頃は、」こんなにという、感じです。千葉のここでは、綺麗な、紅葉を期待しるのは、無理ですが、渡り鳥で、冬が近づいていることを感じます。

1.10月初めの袖ヶ浦公園の池

波間に、多少のわた鳥が見えます。
多少みえます。
これは、10月の末ですが、多少増えました。

2.1800mの散歩道

この池一周が、約1800mです。われわれ、歳よりは、1周で十分ですが、若い人は、何周も走って、回ってます。冬でも風が、強くないので、歳より向きです。袖ヶ浦には、海岸に臨海公園がありますが、冬は、風が強く、歳より向きでは有りません。1日、7000歩の散歩道です。

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令和3年、秋の収穫

昨年度は、秋に、薩摩いのも収穫を送らせて、イノシシに全部食べられました。今年は、早めに、収穫しました。サトイモの苗は、50本近く植えまして、結構な量を確保しました。

また、新しく、枝豆を植えました。60株くらい植えました。今、10月末、29日ですが、結構実がなりました。多少虫がついてますが、食べられます。

1.サトイモの収穫

前方は、試し掘りをした後です。20本近くあります。もう一列ありましたが、左側ですが
すでに、掘り起こしました。ここは、安穏芋です。隣は、紅あずまです。安穏芋は、千葉には向いていないようです。
10月に入ってから、虫が出て、葉は、このように食い荒らせてしまいました、しかし、芋は関係がありません。イノシシに食われるより、幸せです。
これは、紅あずまです。安穏芋に、紅あずまが、混じってしまいました。しかし、一本の苗から、こんなに取れます。結構おいしいです。
安穏芋です。大きくなりません。千葉では、気候があわないようです。来年は、止めます。
大学芋にすると、食べられるようです。

2.枝豆

50粒くらい植えました。肥料もやらず、ただ植えただけですが、肥料が残っていたのか、こんなに、こんもり育ってしまいました。
こんなに、実を付けました。とても、食べきれません。近所の知り合いに食べてもらってます。

3.反省

冬に向けて、葉物を作りました。ほーれんそうを植え付けました。多すぎると思います。春菊、小松菜、パクチです。これも近所に配らないと食べきれません。

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令和3年ヒガンバナが咲きました

自然は、正直で、同じ季節に同じ花が咲きます。野菜作りで、ほぼ、毎日、畑に行きますが、9月13日ころに、ヒガンバナの蕾を見つけました。9月19日、1週間でほぼ、満開になりました。この間に、雨の日もありましたが、元気に、育ってます。
この季節は、サツマイモを、イノシシがねらっておりますが、今年は、まだのようですが、我が家のさつまいもも、時間の問題です。イノシシが食べる前に、試し掘りをしましたら、今年は、まーまの出来のようです。大根の種まきもしました。

1.9月13日、彼岸花の蕾をみつける

9月13日、花芽は、大きくなってますが、花は、開いておりません。

蕾もあります。
昨年もありましたが、一株だけ白です。園芸株だそうです。園芸株には、黄色もあるようです。

2.9月19日、雨天が2日ほどありましたが、ほぼ、満開です。

ほぼ、満開になりました。
昨年、株を増やした後です。弟がやってますが、毎年、株を増やしてます。
畑の真ん中あたりです。
畑の奥にもあります。
古株の部分です。株が大きくなります。
梅の木の下は、ほぼ、ヒガンバナになりました。

3.イノシシの季節です。

今年は、サツマイモもやってます。ヒガンバナが咲くころは、山からイノシシが、降りてきます。昨年は、サツマイモは、一晩で、すべて、食べつくされましたが、今年は、イノシシが出る前に、サツマイモの収穫をしたと、考えております。ヒガンバナは、毒があり、動物は、食べないそうですが、ヒガンバナを食べなくとも、その他の、食べ物は、上手く食べるようです。

このBlogをつくるとき、スマホの写真を張り付けようとしましたが、容量が大きくて、張り付けられませんでした。paint.netで原画を縮小しましたら、張り付けられました。参考まで。

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鉄砲漬けを試みる

コロナの時代、暇を見つけては、何かを試みることは、大切なことと考えます。トマトジュース、色々な、ジャムは試みましたが、今回は、千葉の名産成田の鉄砲漬けを調整意してみました。

まずは、原料は、はぐらウリを使います。これが、弟の畑に山ほどあり、カラスの餌になってました。何とか、利用方法がないか、調べましたら、千葉の名産、成田の鉄砲漬けの原料とわかりました。死んだ兄貴の畑にもあり、採って、食べろと言われましたら、食い方がわからず、ほとんど利用しませんでした。亡くなった兄貴には、すまないと思ってました。

コロナの時代です。時間は、たっぷりあります。WEBで調べましたら、鉄砲漬けの作り方のレシピがありました。自分流に、試みました。1年目の試作と思ってください。

1.はぐらウリとは

白瓜野中まで、こんな形をしてます。前後を切り離しました。スパーでは、最盛期は、8月頃ですが、1本、安いものでは、50円くらい。高級品ではありません。ぬかみそ、塩漬け等で食べても、そんなに、惜しいものではありません。この写真は、ウリの前後を切り離し、種を、スプーンで、くりぬきました。なんでもできます。実の部分は捨てます。

2.鉄砲をつくる

はぐらウリの両端を切り離し、芯の部分を適当なスプーンで種を取り除きます。この形が、鉄砲の芯に似ていることが、鉄砲漬けの意味らしいです。

この中に、唐辛子を紫蘇の葉をまいた、芯を入れ込みます。これが、鉄砲の芯。

3.漬け込み

本職は、これを、樽に並べて、塩漬けにするそうです。我が家は、樽がないので、安物の、漬物器を使いました。その際に3%の塩水漬けにするそうですが、ウリの表面に塩を塗り付けておくだけでもよい。私は、初めの3日間は塩水漬けにしました。

3日ぐらいで、水分がでてきます。これを捨てて、新しく塩を2%くらい加えて、漬け直します。

安物漬物器に並べる。これでは、小さすぎると思います。大きな樽に、多量に漬けるべきと思います。成田は、テレビで見ましたが2mくらいある樽につけてました。これに、塩をるつ感じです。
こんなもんじゃ、ウリは、つぶれない。時間が掛かります。私は、沢庵付けの樽も使いましたが、この方が、安心です。

3.ウリはつぶれる

1週間後に、ウリは平たくなりました。食べてみましたら、多少、青臭かったです。発酵が足りないせいと思います。
11か月後、試食しましたら、青臭さは、無くなってました。結構、酒のつまみになりました。

途中で、塩迪を加えたのが、良いかもしれません。夏の漬物なので、日陰が欲しいです。来年は、もう少し多量に漬けてみようと思います。