新聞の広告などに、この時代に、歎異抄を読みましょう!とか、広告が出てます。無人島に一冊の本を持ってゆくとしたら、歎異抄を選ぶとか、何となく、気になり本です。21年前に、購入したが、全く、目を通してない本が、2冊ありました。昨年の末に本を整理した時、残しておいた本です。梅原猛の書いた、歎異抄の入門の書です。20年間、落ち着いて、読んでみる機会は、ありませんでした。
このコロナ時代に、やるものがなくなったので、重い腰をあげて、本棚から、引き出して、見ました。
自分では、仏教人であり、真言宗の信徒と思ってますが、ほぼ、無信心者です。しかし、この歎異抄は、浄土宗の本でした。この本を見て、初めて知りました。従って、歎異抄を読むなどと大きなことは、言えません。斜めに見るくらいの感じです。
1.まず、仏教を学ぶ
仏教を初歩的に、学びます。
私的な話で、恐縮ですが、30年前ごろ、インドのマデアプラデシュ州の首都、ボパールに光ファイバ工場を建設の折、近くに、サンチというところがあり、そこに、仏陀のスツーパ(納骨堂遺跡)がありました。仏陀(釈迦)紀元前5世紀にインドの北部、ブダガヤというところに生まれ、シャカ属のお王子さんとして生まれ、その人が、仏教を創設したそうです。釈迦(ゴータマシッダルタ)人生に悩み、ヒマラヤの近くで、瞑想するも、悟りが開かれず、麓に帰り、菩提樹の下で、瞑想して、人間の生き方を悟り、仏陀になりました。その時、釈迦を助けたのが、村の娘、スジャータです。まったく、余談ですが、我々の飲み会の名称です。
それから、紀元全1世紀の中国に伝わり、後漢の時代だそうです。それから、500年、欽明天皇、552年に日本に伝わりました。仏教導入時は、色々、トラブルもありましたが、聖徳太子などの、助けを受け、導入から200年後、天平宝勝4年(752)聖武天皇の時代、東大寺大仏開眼をして、仏教は、日本に定着しました。その後の、最澄、空海の時代です。
最澄は、比叡山に延暦寺を開き、天台宗を創設します。空海は高野山で、真言宗を創設します。2人の宗派は、密教で、真理を知るには、修行が、必要でした。これらは、仏性と戒律がりました。仏になれる人間の資格、仏教にかかわる戒律がありました。
鎌倉時代の仏教は、この問題を大きく変えました。まず、法然、親鸞が、仏は、誰でもなれると、換えます。今までは、修行をした人など、特別な人間でなければ、極楽にはゆけないとなってました。これを”波阿弥陀仏”と唱える、“口誦念仏””こうしょうねんぶつ”を進めました。
この時代、鎌倉時代発祥の宗教は、易行を中心に発展、布教したように思います。日蓮は、題目、”南無妙法蓮華経”を唱える。道元が、座禅です。
この時代は、戒律が、緩められたというか、見直されております。特に、法然、親鸞は、変えられました。どんな宗教にも、戒律の揉んだ愛があります、キリストのモーゼの10戒、仏教にも多くの戒律があります。仏教では、5戒というものがあります。
1.不殺生戒
2.不愉盗戒
3.不邪淫戒
4.不妄語戒
5.不飲酒戒
現在では、こんなもの、守れるわけがありません。しかしこの時代は、もっと、厳しい、戒律がありました。
現在でも、イスラムの戒とか、カトリックの離婚できないとか、戒律だらけです。
親鸞は、3番目の不邪淫戒に相当する、不邪淫戒に相当する戒律を聖徳太子の六角堂で、こもっているときに、観音様があわられて、観音様が、妻帯を許してもらえる、夢を見るのです。大変理解のある、観音様です。ですから、いまでも、観音様は、人気があるのではと思います。
以前は、無目も希望もない時代に、誰でもが、極楽浄土に行かれて、死後は、幸せな生活が送れるという、極楽浄土があるという教えは、魅力的であったでしょう。この極楽浄土を教えてくれたのは、源信恵心僧都(げんしんえしんそうず)という僧で、往生要集という本を書いて、西方にある阿弥陀浄土を宣伝しました。
この、僧が、阿弥陀を信仰して、波阿弥陀仏を唱えれば、極楽浄土に、行けると宣伝していたのです。
これまでの奈良、平安仏教は、国家の安泰のための仏教で、庶民のための仏教ではないのです。平安時代、いわゆる、源氏平家の戦いから、武士階級が生まれ、時代は、変革期にありました、庶民のための、宗教が、この時代に必要とされたんです。
鎌倉時代に仏教は、2つの方向に変革があります。
1つは、南部、奈良等で、戒律復興運動、より従来のやり方を見直し、厳しい方向に行こう。臨済宗と曹洞宗の禅宗の興隆です。現在社会でも、改善運動で、改善が見込まれないと、我々のやり方は、改善が足りないので、もっと、もっとやるべきと主張する人がおります。昔回帰型。
もう一つは、法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗や、日蓮の日蓮宗の開宗へとつながります。まったく新しい方向です。
平安時代まで仏教は、国家や貴族を救済するための仏教でした。平安時代が、高貴な方の救済であったのに対して、時代に変革があった鎌倉時代には、仏教も改革を求められたのです。
そこで、生まれたのか、いわゆる、鎌倉仏教です。現代は、この中で、生きております。
鎌倉仏教は、下記のような宗教を生んでおります。
法然 1175年(43歳)専修念仏による往生を説く 浄土宗
栄西 1191年(53歳)臨済宗を伝える 臨済宗
親鸞 1224年(52歳)本願念仏による往生を説く浄土真宗
道元 1227年(28歳)曹洞宗を伝える 曹洞宗
日蓮 1253年(32歳)唱題目による永遠の救い 日蓮宗
これらの宗教は、最澄が起こした、天台宗比叡山で修学して、そこから離脱して、新しい、宗派を創設したものです。
歎異抄を見るためには、親鸞がどのようにして、誕生したのかを理解するのは、必須の条件なのです。浄土真宗の為の経典が歎異抄なのです。
2.浄土宗、浄土真宗の教えとは
釈迦の誕生は、紀元前5世紀、法然の時代、1175年は、釈迦の誕生後1500年を200年近く過ぎており、釈迦の考えでは、正法、像法を過ぎて、末法の時代と説いております。方丈記を書いた、鴨の長明も末法の思想がありました。釈迦は、この時代は、人が、安寧を生む、悟りを開くには、教、行、証が、必要とあります。
教とは、教えです。行うべき、事項。
行とは、教えの通りに実行すること。
証とは、悟りで、上の2つにより、達成されます。なんでもわかった。もう迷わないということか?
お釈迦様は、この、末法の時代は、教えしか、残っておらず、修行する人もなく、悟る人もいない時代と、予測してます。
もはや、人は、お釈迦様のようになれないと宣言しているのです。もう、お前らは、少ないと時代だと言っているのです。
この時代に生まれた、人々は、絶望の中にいたのです。
法然は美作(みまさか)の国に生まれ、比叡山で天台宗を学びましたが、国家や、エリートは救えますが、庶民、権力のない人、武士(新興勢力)は救えなかったのです。その理論がなかったのです。
法然は、誰でも救われる方法はないか?色々な学者、と言ってもそうですが、当時の仏教指導者、法相宗、華厳宗に学びましたが、解決策はなく、20年を、阿弥陀仏を、経典の中から、見つけ出したのです。
お釈迦様がとかれた、お経は7千余巻あり、何時の時代も、どんな人も救われる法が、説かれている、
大無量寿経
観無量寿経
阿弥陀経
を見つけ出したのです。この時、法然、43歳(1198年)の時です。
法然の教えは、他力の念仏を唱えることです。他力の念仏とは、阿弥陀仏の力のことです。
観無量寿経に3つの心が説かれております。
至誠心
真実の心のこと。真実というのは、心空しくして外見を取り繕う心のないこと。
深心
疑いなく、深く信じること。阿弥陀の名号を唱えれば、必ず往生できると信じること。
廻向発願心
自分が修めた行いをひたすら極楽にむけて、往生したいと願う心のこと。
法然の主著 選択本願念仏集で、これが、守られなければ、念仏も、効果がないと言ってます。
他力の念仏を唱える者は、次の、四修をしたくなる、本当は、やらなければ、効果がないということかも?
四修とは、
恭敬修
救われたら、阿弥陀仏を敬い、礼拝する。
無餘修
私を救いたもう仏は以外はいない、阿弥陀仏を礼拝し、ほめたたえ、念仏をとなえる。
無間修
いつ死んでも、極楽参りを疑わない、死ぬまで、極楽浄土を思い浮かべ、念仏をとなえる。
長時修
命がある限り、上の3つをつづける。
この、3心と4修を持って、念仏をすれば、極楽浄土に行かれる。
易行と言いながら、現在では、結構厳しい修行ではないか?
法然は、末法の世に生まれ、財力や能力のない多くの人は自力の修行による悟りは難しい。
人間の個人としての精神的な救済を、自分の力でなく他力(阿弥陀仏の大いなる慈悲)に求めたのである。
浄土宗と浄土真宗の違いは、元々、法然から、発生しています。浄土宗が、弁長の鎮西派、証空の西山派、親鸞の浄土真宗に分かれてます。
浄土宗の本尊は、阿弥陀如来の木像や絵像ですが、浄土真宗は、南無阿弥陀仏の名号のみが、本尊です。
親鸞の浄土真宗は、阿弥陀仏の約束をかたくなに信じ、生きているときに苦悩の根元を断ち切られて、生きているときに、この世の正定聚の菩薩になり、これが大安心、大満足の絶対の幸福です。そして、死ねば極楽浄土へ行って仏に生まれ変わります。報土往生です。そのために、真の浄土宗であるということで、浄土真宗と言われます。
この浄土宗は、当時、鎌倉時代の民衆の支持を受けました。法然の教えを曲解して、念仏を唱えれば、すべてが、許されるなどとして、他の宗派から、攻撃の対象になりました。かって、修行した比叡山の僧侶らは、法然に責任を取らせようとしました。また、奈良の興福寺をはじめとする、当時の既成の仏教教団は、念仏の停止を天皇に奏上しました。法然に都合が悪いことに、法然の弟子に、人気のある、住連、安楽という、念仏の上手い僧侶がいて、後鳥羽上皇の女官が、勝手に出家する事件が起きました。
1207年、怒った後鳥羽上皇は、自分の女に手を出され、他の教団からも、法然、浄土宗一派を処分するように、奏上されていたので、浄土宗一派を、処分しました。住連、安楽は死罪、法然以下7人を流罪にしました。この中に、親鸞が入ってます。法然は、讃岐の国、親鸞は越後。この時、親鸞は、愚禿親鸞と自分で名前を改めました。1211年、法然も親鸞も赦免になりました。
親鸞は、京には戻らず、常陸の国に行き、布教を始めます。
ここで、20年布教します。ここでの弟子、唯円(ゆいえん)がおりますが、後に、親鸞の教えの誤解を解くために、歎異抄を書きました。
親鸞没後、30年後に、1300年頃に、歎異抄は、書かれました。
親鸞が、常陸の国から、かえって、常陸のでしから、色々は教えが、広がりました。これを鎮めるために、息子、善鸞を常陸に贈りましたが、この善鸞が、自分を守るために、異説を作ったとの話もありますが、親鸞は、息子を断絶しました。これが、善鸞事件です(1256年)。この本は、成立から200年間は、秘密にされました。
3.歎異抄を見る
歎異抄の構成は、次のようになっております。
1.真名序
2.第1条から第10条までー親鸞の言葉
3.別序ー第11条以降の序文
4.第11条から第18条まで―唯円の異義批判
5.後序
6.流罪にまつわる記録
歎異抄を紐解いてみると、確かに、大変、深遠な哲学、信仰が書かれております。たった、18条ですが、1条ごとには、非常に深い、信仰心、哲学があるようです。簡単に、全章を、話すなど、不謹慎と思います。私が、今回、梅原猛の入門書をよんで、一番、びっくりした章だけを、今回は、書きたいと思います。私は、真言真宗の信徒でもなく、新聞の広告から、興味を持ち、しかも、20年前に購入して、読みもせず、積んでおいた本を、整理するために、開いただけです。
日本の仏教を、勉強することは、確かに、楽しいことです。千葉の鋸山にいって、日本寺を知り、当時700年代に行基という坊さんが居て、東大寺の開業に協力して、仏教に興味を持ちましたが、今回は、鎌倉時代の仏教でした。
歎異抄で、有名なのは、3条の善人なをもて、往生をとぐ、いわんや悪人をや。ですが、本願他力の趣旨を理解すれば、なるほどと、思います。以前に、この項は、いろいろ、聞いていたので、そんなに、不思議とも、思いません。今後、時間があれば、思ったことを、記述してみたいと思います。
今回、一番、驚いたのは、13条の阿弥陀の本願と宿業についてです。本文通りではありませんが、ある時、親鸞聖人が、弟子の唯円に、「お前は、私の言うことを信じるか?」とききます。
唯円は、「もちろんです!」
親鸞が「ならば、千人ころしてくれ、そうすれば、往生させてやる!」
唯円は、「聖人の仰せですが、私は、千人どころか、一人も殺せません!」
親鸞は、「人間心に任せて、善悪を判断するなら、善と判断すれば、千人でも、殺すだろう!しかし、お前が、一人も殺せないというのは、善悪の判断ではなく、殺すべき因縁、宿業がないからだ!人を殺せないのは、お前の、心の良さではない!また、殺すまいと思っても、千人でも殺すことがある!
すべて、阿弥陀の本願によって、動かされているのだよ。宿業によるものだ!あなたの心の、善悪の判断ではないことを、知りなさい!!」
私見、自分に与えられた、というより、自分で取得した、知恵で善悪を決め、それをもとに、行動する。自分の力と信じている。
阿弥陀によって、行動は、支配されている。これが、信心か?
宗教の本質かもしれないと思います。
私は、信者ではないので、参考にします。うぬぼれがないように!!
今回は、ここまで。