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日記、経験

源頼朝 in 袖ヶ浦

令和4年の1月から始まった、NHKに大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は頼朝、伊豆の石橋山の戦いで敗れて、房総半島に、逃げていてから、身近になってきました。京都では、保元平治の乱があり、最終的には、源氏が破れ、頼朝は、伊豆になされて、20年辛抱しますが、以仁王の反乱により、頼朝自身が再起をしますが、石橋山で、大庭景親に敗れて、安房の国に逃げてきました。
今の鋸南町竜島、保田と岩井の間、鋸山の南側、日本寺の注ぐ近くです。伊豆の真鶴から、船に乗り、三浦半島を抜けて、東京湾を渡ったのです。1180年の8月。夏だから、寒くはないか?

この竜島から、房総半島の豪族を、味方に付けで、鎌倉を目指します。一宮の上総常広、千葉の常胤らを味方の、鎌倉に上がりました。

その時に、道のりが、色々なところに残っております。単なる、言い伝えもあるようですが、そこまでは、精査してません。コロナの中で、私が歩いて、気になったところを、記述したいと思います。

1.袖ヶ浦の鎌倉街道

袖ヶ浦公園の上池の放流口の近くに、近くの案内図があります。
この案内図に、昔から伝えられる鎌倉街道が入った、地図があります。

袖ケ浦市の説明の上のところに、鎌倉街道があります。袖ヶ浦公園の上池から右に伸びてまして、上の市原市の下の境に続いております。市原市の中に、後で、説明する、頼朝と関係する、御所覧塚があります。その近く200mくらいのとこに、万騎坂があります。
この鎌倉街道は、君津市、木更津市から、袖ヶ浦市、三作から、わかっているようです。
野菜畑の中を、2kmくらい進みます
次の野田というところ、交差点のところに、鎌倉街道の説明があります。左側下に、源頼朝北上経路の図があります。
ここも、畑の中を真っすぐ進みます。県道300号に市原方面に進み、39ゴルフ場の看板を左に折れると、辻の通りに付きます。そこが、野田から次ぐく、鎌倉街道です。

2.源頼朝の北上経路の鎌倉街道

頼朝が、1万騎を集めて、閲覧した、御所覧塚です。鎌倉街道に入るとすぐ、目に入ります。
御所覧塚です。
この道路が鎌倉街道です。君津、木更津、袖ヶ浦公園方面です。公園お先に三作があり、ここに、頼朝は、1180年の9月15,16に表れたそうです。この道の真ん中が袖ヶ浦と市原の境界だそうです。御所覧塚は市原側。
市原をみる。ここから、200mぐらい先に、万騎坂があるそうですが、今回は見逃しました。地元の人にも聞いてもわかりませんでした。

3.袖ヶ浦に入った、頼朝軍はこの道のほかに、海への道を頼った。

昔からある土地ですが、飯富から、蔵波、久保田、代宿を言う道があったそうです。この途中に昔から、鎌倉街道と呼ばれている道が、あります。

浜宿といところに、山道があり、昔から、鎌倉街道と呼ばれております。
この道は、昔から、鎌倉街道を言われておりまっした。昔から、お墓は、道の近くに作ってましたので、私の祖先の墓は、この道にあります。

4.旗立の台地

この海岸よりは、台地になってます。昔から、「ハッタテ」の下と言ってましたが。「旗立て」だということが、わかりました。

頼朝が、千葉の方に合図を出したとも。昔、川鉄等の工場がなかったころは、筑波山まで、この辺の台地からは、見えました。
東京の国会議事堂も見えましたの。100年前は、もっと見えたのでは?

水は、東京湾、右は埋め立て地。台地の下は旧16号と内房線が入ってます。頼朝時代は、台地の上を通ざるを得なかったのでは?
台地は、海岸に沿って、道が走ってます。この台地は、昔、のりの漁師は、この台地を目印に、帰りの海岸を探したのでは?海から見て、台地の一番千葉寄りのところです。「ハッタテ」は、海は深いと言ってました。港でもあったのか?