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日記、経験

源頼朝 in 袖ヶ浦

令和4年の1月から始まった、NHKに大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は頼朝、伊豆の石橋山の戦いで敗れて、房総半島に、逃げていてから、身近になってきました。京都では、保元平治の乱があり、最終的には、源氏が破れ、頼朝は、伊豆になされて、20年辛抱しますが、以仁王の反乱により、頼朝自身が再起をしますが、石橋山で、大庭景親に敗れて、安房の国に逃げてきました。
今の鋸南町竜島、保田と岩井の間、鋸山の南側、日本寺の注ぐ近くです。伊豆の真鶴から、船に乗り、三浦半島を抜けて、東京湾を渡ったのです。1180年の8月。夏だから、寒くはないか?

この竜島から、房総半島の豪族を、味方に付けで、鎌倉を目指します。一宮の上総常広、千葉の常胤らを味方の、鎌倉に上がりました。

その時に、道のりが、色々なところに残っております。単なる、言い伝えもあるようですが、そこまでは、精査してません。コロナの中で、私が歩いて、気になったところを、記述したいと思います。

1.袖ヶ浦の鎌倉街道

袖ヶ浦公園の上池の放流口の近くに、近くの案内図があります。
この案内図に、昔から伝えられる鎌倉街道が入った、地図があります。

袖ケ浦市の説明の上のところに、鎌倉街道があります。袖ヶ浦公園の上池から右に伸びてまして、上の市原市の下の境に続いております。市原市の中に、後で、説明する、頼朝と関係する、御所覧塚があります。その近く200mくらいのとこに、万騎坂があります。
この鎌倉街道は、君津市、木更津市から、袖ヶ浦市、三作から、わかっているようです。
野菜畑の中を、2kmくらい進みます
次の野田というところ、交差点のところに、鎌倉街道の説明があります。左側下に、源頼朝北上経路の図があります。
ここも、畑の中を真っすぐ進みます。県道300号に市原方面に進み、39ゴルフ場の看板を左に折れると、辻の通りに付きます。そこが、野田から次ぐく、鎌倉街道です。

2.源頼朝の北上経路の鎌倉街道

頼朝が、1万騎を集めて、閲覧した、御所覧塚です。鎌倉街道に入るとすぐ、目に入ります。
御所覧塚です。
この道路が鎌倉街道です。君津、木更津、袖ヶ浦公園方面です。公園お先に三作があり、ここに、頼朝は、1180年の9月15,16に表れたそうです。この道の真ん中が袖ヶ浦と市原の境界だそうです。御所覧塚は市原側。
市原をみる。ここから、200mぐらい先に、万騎坂があるそうですが、今回は見逃しました。地元の人にも聞いてもわかりませんでした。

3.袖ヶ浦に入った、頼朝軍はこの道のほかに、海への道を頼った。

昔からある土地ですが、飯富から、蔵波、久保田、代宿を言う道があったそうです。この途中に昔から、鎌倉街道と呼ばれている道が、あります。

浜宿といところに、山道があり、昔から、鎌倉街道と呼ばれております。
この道は、昔から、鎌倉街道を言われておりまっした。昔から、お墓は、道の近くに作ってましたので、私の祖先の墓は、この道にあります。

4.旗立の台地

この海岸よりは、台地になってます。昔から、「ハッタテ」の下と言ってましたが。「旗立て」だということが、わかりました。

頼朝が、千葉の方に合図を出したとも。昔、川鉄等の工場がなかったころは、筑波山まで、この辺の台地からは、見えました。
東京の国会議事堂も見えましたの。100年前は、もっと見えたのでは?

水は、東京湾、右は埋め立て地。台地の下は旧16号と内房線が入ってます。頼朝時代は、台地の上を通ざるを得なかったのでは?
台地は、海岸に沿って、道が走ってます。この台地は、昔、のりの漁師は、この台地を目印に、帰りの海岸を探したのでは?海から見て、台地の一番千葉寄りのところです。「ハッタテ」は、海は深いと言ってました。港でもあったのか?

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日記、経験

山野貝塚

袖ケ浦市には、12か所の貝塚があるそうです。その最大なのが、山野貝塚で、全部の発掘は、終わってないようです。このコロナ騒ぎで、市の設備の水泳プールは使えず、健康のために、ひたすら、市内の散歩をしております。そのコースもできるだけ、人に合わないようなコースを選んでおります。その中で、この貝塚は、繁華街からは、多少離れております。我が家から、歩いて、1時間近く、携帯の歩数計で、6000歩くらいのところです。往復で、2時間くらい。もはや、早くは歩けないので、ゆったりとです。

千葉県は、貝塚が多い県のようです。全国で2000か所くらいあって、700か所は、千葉だそうです。私が知っている貝塚は、大森貝塚ですが、千葉では加曽利塚貝塚でしょう。縄文時代4000年前くらいの貝塚だそうです。

1.山野貝塚

山野貝塚の入り口にある、案内です。袖ヶ浦の山の中というところか?袖ヶ浦公園の近く。
徒歩で、行かないと、車の交換が、大変なところです。水道の配水所があります。団地のはずれの蔵波中学校から、1kmくらい離れたところ。

近くには、古墳とか、貝塚がたくあんあります。
ここが、山野貝塚。単なる、野原です。この下が、貝塚になっているらしいです。
山野貝塚の案内看板。

山野貝塚は、縄文時代晩期、4000年前から2300年前の貝塚だそうです。


この時代の房総半島は、現在の形と異なってます。2万年前の氷河期が終わり、6000年前に温暖化が進み、縄文の海進という、海水面が13mくらい進んだそうです。その姿です。山野貝塚は、海岸の先端にあたことがわかります。東京湾は、皆潮干狩り場だったのす。
この貝塚の入り口の道路のわきには、貝殻が沢山見えます。海岸から、4kmくらい離れた山の中ですので、本来なら、貝殻などは、見当たらないところです。しかし、袖ヶ浦には、こんなに大きくはありませんが、こんな風景は、沢山なります。最近捨てたとすると、貝が白すぎます。

貝塚は、食糧の貝のほかに、動物の骨とか、土器も捨てられていたようです。多分、快適なところでは、無かったはずです。ハエもいたのでは?したがって、集落のはずれにあったか?素人でわかりませんが、私は、想像します。

2.縄文時代とは、

以前に、チバニアンについて記述しましたが、その時に、地質時代を自分風にまとめました。と言っても、単に、情報を集めただけですが、再度、掲載します。

この時代が終わると、弥生時代で、稲作が始まります。それ以前に、東京湾沿岸は、人が住んでいたのです。袖ヶ浦の高台の畑などを、はぎ取ると色々は、住居後の遺跡があるようです。何度か、発掘現場を見たことがあります。

3.周りの風景

この写真の丘の上に、山野貝塚があります。前は、田んぼですが、周りは、小高い丘陵になってます。平たいところは、多分、昔は海。と言っても、浅瀬の海だったのでしょう。
ここから、貝を集めたのでは、と思います。房総半島は、何度も、富士山の噴火灰を受けいる、はずで、関東ローム層を形成してます。そのために、落花生、サツマイモが取れます。
袖ケ浦公園の展望台から、東京湾のに入り口側、ここからは、木更津、君津方面を見るとこの下は、海だったと思われます。平野の向こう側は、やはり、小高い丘陵になってます。
ここが、海だったとすると、静かな入り江ではあなかったか?浅瀬で、貝は、一杯取れたでしょう。
丘陵の台地は、火山灰で、さらさらした、土です。今は、大根畑になってます。
キャベツ畑です。
貝塚の周りの畑には、貝の姿もありません。
余談ですが、田んぼの中に、住宅がいっぱい。丘陵の台地も、団地だらけです。奥に見えるのが、君津製鉄所です。

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旅、遠足 日記、経験

袖ケ浦公園冬の夕方

令和3年12月18日(土)16時過ぎに、袖ヶ浦公園を散歩しました。少し寒くなったので、冬鳥が集まるころと思い、夕方散歩することにしました。さすがに、人は少なく、静かでした。
15時過ぎには、月が出ておりました。渡り鳥の数は、何となく、昨年よりは、少ないような感じがします。これだけの渡り鳥の数は、数えるの能力は、私には、ありません。

私が、子供のころ、70年前ごろ、私の実家は、東京湾の海岸にありました。台風の時は、波の音が、聞こえました。普段は静かな海でした。冬には、多量の鴨が、東京湾を埋めておりました。今見る、こんな量、数ではありません。海が、真黒に感じました。それを不思議とも思いませんでした。自然とは、こんなものと思ってました。あの渡り鳥は、どこへ、行ったのか?

1.夕方の富士山

房総半島は、高い山がないので、どこからでも富士山が見えるようです。私の町からでも、隙間があれば、富士山は見えます。
朝夕は、東京湾越しに、富士山は見えます。特に夕方は、太陽が沈む、方向なので、綺麗な夕焼けを一緒に見えます。朝は、反射で、冬は、雪に覆われた、富士山が見えます。東京湾に浮かんだ富士です。
18日は、公園の近くの駐車場の隙間から、見えました。もう少し暗くなると、見えなくなる、寸前でした。17時半ごろです。
本当は、海岸の臨海公園にでて、撮影すれば、もっときれいです。

上手く、写真になりませんでした。東京湾から、4kmくらい離れてます。
スマホでは、こんな程度?

2.渡り鳥の数

11月初めよりは、多くなったと思います。渡り鳥は、北からくるものと思ってます。八戸にいたころ、近くの池に行きましたが、狭い池に、白鳥も来ておりましたが、さすが千葉は、来ないようです。

夕方、渡り鳥は、水辺に集まるようです。
寝るには、早すぎると思います。

3.夕方、17時過ぎ、月が出てました。

まだ、明るく感じたのですが、水面に、月影がありました。

こんな写真を撮って見たいと思ってました。房総半島の冬は、晴天の日が多いです。ただ、風はあります。風がなければ、冬でも小春日和です。

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日記、経験

晩秋の袖ヶ浦公園

令和3年の晩秋、コロナで人混み遠慮して、散歩するには、わが町では、袖ヶ浦公園です。毎年、Blogで袖ヶ浦公園を紹介してますが、10月の初めから、終わりにかけて、公園の池に、渡り鳥が、来始めました。まだ、少ないのですが、1月頃は、」こんなにという、感じです。千葉のここでは、綺麗な、紅葉を期待しるのは、無理ですが、渡り鳥で、冬が近づいていることを感じます。

1.10月初めの袖ヶ浦公園の池

波間に、多少のわた鳥が見えます。
多少みえます。
これは、10月の末ですが、多少増えました。

2.1800mの散歩道

この池一周が、約1800mです。われわれ、歳よりは、1周で十分ですが、若い人は、何周も走って、回ってます。冬でも風が、強くないので、歳より向きです。袖ヶ浦には、海岸に臨海公園がありますが、冬は、風が強く、歳より向きでは有りません。1日、7000歩の散歩道です。

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farmer 日記、経験

令和3年、秋の収穫

昨年度は、秋に、薩摩いのも収穫を送らせて、イノシシに全部食べられました。今年は、早めに、収穫しました。サトイモの苗は、50本近く植えまして、結構な量を確保しました。

また、新しく、枝豆を植えました。60株くらい植えました。今、10月末、29日ですが、結構実がなりました。多少虫がついてますが、食べられます。

1.サトイモの収穫

前方は、試し掘りをした後です。20本近くあります。もう一列ありましたが、左側ですが
すでに、掘り起こしました。ここは、安穏芋です。隣は、紅あずまです。安穏芋は、千葉には向いていないようです。
10月に入ってから、虫が出て、葉は、このように食い荒らせてしまいました、しかし、芋は関係がありません。イノシシに食われるより、幸せです。
これは、紅あずまです。安穏芋に、紅あずまが、混じってしまいました。しかし、一本の苗から、こんなに取れます。結構おいしいです。
安穏芋です。大きくなりません。千葉では、気候があわないようです。来年は、止めます。
大学芋にすると、食べられるようです。

2.枝豆

50粒くらい植えました。肥料もやらず、ただ植えただけですが、肥料が残っていたのか、こんなに、こんもり育ってしまいました。
こんなに、実を付けました。とても、食べきれません。近所の知り合いに食べてもらってます。

3.反省

冬に向けて、葉物を作りました。ほーれんそうを植え付けました。多すぎると思います。春菊、小松菜、パクチです。これも近所に配らないと食べきれません。

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farmer 日記、経験

令和3年ヒガンバナが咲きました

自然は、正直で、同じ季節に同じ花が咲きます。野菜作りで、ほぼ、毎日、畑に行きますが、9月13日ころに、ヒガンバナの蕾を見つけました。9月19日、1週間でほぼ、満開になりました。この間に、雨の日もありましたが、元気に、育ってます。
この季節は、サツマイモを、イノシシがねらっておりますが、今年は、まだのようですが、我が家のさつまいもも、時間の問題です。イノシシが食べる前に、試し掘りをしましたら、今年は、まーまの出来のようです。大根の種まきもしました。

1.9月13日、彼岸花の蕾をみつける

9月13日、花芽は、大きくなってますが、花は、開いておりません。

蕾もあります。
昨年もありましたが、一株だけ白です。園芸株だそうです。園芸株には、黄色もあるようです。

2.9月19日、雨天が2日ほどありましたが、ほぼ、満開です。

ほぼ、満開になりました。
昨年、株を増やした後です。弟がやってますが、毎年、株を増やしてます。
畑の真ん中あたりです。
畑の奥にもあります。
古株の部分です。株が大きくなります。
梅の木の下は、ほぼ、ヒガンバナになりました。

3.イノシシの季節です。

今年は、サツマイモもやってます。ヒガンバナが咲くころは、山からイノシシが、降りてきます。昨年は、サツマイモは、一晩で、すべて、食べつくされましたが、今年は、イノシシが出る前に、サツマイモの収穫をしたと、考えております。ヒガンバナは、毒があり、動物は、食べないそうですが、ヒガンバナを食べなくとも、その他の、食べ物は、上手く食べるようです。

このBlogをつくるとき、スマホの写真を張り付けようとしましたが、容量が大きくて、張り付けられませんでした。paint.netで原画を縮小しましたら、張り付けられました。参考まで。

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日記、経験

農事報告

2021年の現在の農事報告をします。畑を初めて、10年近くになりますが、今年は、定番のキュウリ、トマト、ナス、オクラを植え付けました。そこ他、ズッキーニョ、サトイモ、サツマイモを植え付けました。昨年は、サトイモは、見事に、イノシシに掘り起こされました。収穫ゼロでした。

今年は、トマトを大型に切り替えましたが、見事に失敗です。6月初めに、皆、腐りました。大型は、難しいです。

その中で、キュウリは、豊作です。6月15日ごろから、毎日10本位取れます。7月末くらいまで収穫できるか?

オクラは、9月頃まで、収穫できそうですが、8月の中旬くらいから、味が落ちます。

7月中旬に、地這うのキュウリを植え付けました。これは、8月の末から、収穫できるかも?今年は、枝豆を先週植え付けました。

1.収穫

収穫は、コントロールできません。自然のままです。獲れるときは、どこでも取れる。自宅消費は、限られてます。近所への、お裾分けは、多分、迷惑以外の何物でもない。

一日で、キュウリ10本、ナス5個、オクラ20本位取れると、自宅では、どうにもなりません。今年は、ぬかずけを作ってもらってますが、食べきれません。必然的にお裾分けで、近所に迷惑をかけます。

2.植え付け

手前は、サツマイモ。真ん中の高い部分の、左側がなす、右側がキュウリ、真ん中の何もない部分が、失敗したトマト。跡に見えるのがオクラです。
キュウリは、こんな具合。ますっぐなのは、高級品です。
ナスは、水やりが大切。秋までもちます。
オクラの花も食べれるようですが、食べたことは、ありません。一日で、多くくなるので、毎日取る必要がある。
ズッキーニョ 長持ちしない
左がオクラ、右が、サトイモ。

3.自宅のゴーヤ

今年は、自宅のグリーンのカーテンの下葉が、早くから、枯れます。7月の初めから、枯れ始めました。近所のゴーヤも同じです。私の感じでは、秋が早いのか?

このゴーヤは、我が家でコーヤジュースを作ります。リンゴ、バナナを加えると、苦みがありません。健康の元。

4.薩摩芋のイノシシ対策

サツマイモは、9月21日に収穫しましたが、画像をスマホの圧縮画面で、撮影しましたら、WPには、UPできませんでした。

もとの画面に戻しました。pain.netで圧縮して、今後つづっけます。反省!!

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日記、経験

中国と付き合う

現役時代に、中国と関係がありました。30年前ですが、当時の中国は、貧しかったと思います。まだ、自転車の時代で、こんなに、自転車があるのだと思いました。西安を訪問しましたが、広大な田舎でした。西安の郊外に遊びましたが、まず、トイレにはまいりました。当時の日本人では、安心して、使える人は、いなかったのでは?それから、10年くらいして杭州を訪れましたが、自動車の時代になってました。ものすごいスピードで、開発がされてました。あっという間に、開発が進みます。1年後の訪れると、景色が、変わってます。その後、テレビで、見てますが、相変わらず、すごいスペードだなーと思います。

変わらないのは、共産党です。西安の時代に、すべての会社には、共産党員が、駐在していると知って、びっくりしました。今でも、変わりはないようですが、共産党支配が、徹底していることです。私のような、右翼は、どうも、共産党の世界は、不安と信じられない気持ちが、働きます。

7月1日で、共産党の創立100年の祭りが、行われております。私なりの、中国に関する気持ちを書いてみます。

1.民主党の時代

2009年から2012年の時代。鳩山由紀夫、菅直人、野田桂彦の時代。ここに、小沢一郎がおりまして、中国に媚を売っていた時代です。なんと、民主党の国会議員をはじめ、600人を引き連れて、習近平に会いに行き、皆で、写真を撮って喜んでました。多分、この時代は、中国にとっては、日本は、扱いやすい国だったでしょう。そのうえ、小沢は、習近平を連れてきて、無理やり、天皇に合わせたのです。天皇は、暇だと言って!!
この時代でも、ODAで中国に、お金を、貢いでいたのです。当時の日本の大使が、まだ、ODAを続けると言って、さすがに、そんな段階でないと、止めたと記憶してます。

今回の、共産党創設100年記念で、祝賀に、小沢、鳩山が、祝賀を送っているのは、昔からの付き合いです。
しかし、この他に、自民党の小沢シンパ、二階さんも祝賀を送ってます。この人たちは、中国のシンパなのです。公明の山口も、公明党を、中国で売り込むために、祝電です。

もう一つ、忘れられない、民主党の失敗は、尖閣諸島の中国船の侵入で、日本の警備艇に体当たりした、船長を、中国に返してしまったこと。これで、中国は、日本は、たいした国ではないと考えたろう!

この時代に日本には、聖徳太子がおくった、手紙の

日出所の天子、日没するところの天子に申す、恙なきや!の精神は、無いのです。

2.トランプの見方

トランプは、色々、非難はありますが、中国に対する、対応は、正しいと思います。日本を含めて、中国に対しては、いわゆる、中国が豊かになれば、民主国家になるという仮説です。日本もアメリカも、皆、その仮説に従いました。新日鉄、松下等の1流の企業が協力しました。
しかし、それは、全くの錯誤でした。豊であろうと、貧しかろうと、中国の共産党は、変わらないのです。多分、今後も変わらないでしょう。共産党独裁。

中国で事業したら、最後、すべてを、吸い尽くされます。それを、各国は、自分の利益のために、中国の言いなりになってました。特に、ひどいのは、ドイツ、自動車を売るために、国を挙げて、中国に、協力していたのです。特に、メルケルは、ひどい。

ドイツは、自動車のために、今後も、中国から、離れられないのでは!
残念ながら、日本も、日産が、初めですが、トヨタも中国に頼らざるを得なくなりました。この、数十年の間に、日本、日本の起業家は、現在の中国は、全く、予想できなかったのです。政治家は、なんと二階さんをはじめとして、中国の将来は、予見できてないと思います。せめて、実業界は、と思いますが、これも、哲学がなく、単なる、金儲け!
私も、現役時代に経営に、多少参画していた時代、日本の経営基準は、投資に関する採算性が、投資の基準でした。会社には、立派な、投資採算性の基準が、哲学がありました。投資したお金が、いつまでに回収できるか?

私が、反省するに、その投資が、環境問題とか、社会問題とか、広い意味での社会貢献に関する、指標は全くありませんでした。
そんなことは、考えられなかったし、経営陣にも全く、訴えるものはなかった時代です。

しかし、トランプが出てきて、中国に関して、一部の人が感じていた、基本的な問題を提起しました。世界が、中国の要求道理に動くことは、問題がある。技術を取り放題、中国では、中国に従え!世界の大企業が、中国に進出していながら、世界の基準とは、全く異なる、中国方式に従っていたのです。そこに、問題提起したのが、トランプです。

日本が導入に協力した、製鉄所をはじめとして、あらゆる産業が中国に、参入しました。日中友好協会とかいって、中国の言いなりの参入です。

それらが、将来、中国の人件費やすから、膨大な利益を生み出します。その結果、アメリカの製鉄業は、つぶれました。日本も、自業自得で、国内の製鉄業が、衰退しました。中国を助けたつもり、しかし、日本もアメリカも利用しました。なんでも安ければよい。経済採算性第一で、進んだ結果です。中国の人件費、高度化が進まなければ、人件費の安い、人口の多い中国に有利に働くのは、自然の理です。

この間に、アメリカには、つぶれる産業が多くありました。トランプは、これまでの経済理論を無視して、アメリカファーストを言い出したのです。白人も有色人種も、リッチと思ていた人が、そうではないと気が付き、トランプを指示したのです。

トランプは、中国は、豊かになったのにもかかわらず、ある時は貧乏だと言って、関税を安くして、技術を搾取して、膨大な利益を上げていることに、気が付き、貿易戦争を仕掛けたのです。中国の大国になったので、アメリカのに抵抗できたのです。

アメリカと中国は、国交断絶は、出来ないのです。お互いが、利用しあっているからです。

3.バイデンの時代

バイデンの次代になり、トランプの時代から、引き継がれた事項が、人権の問題です。香港、ウルムチの人権問題です。あらゆる非難に対して、中国は、全く、聞く耳を持ちません。中国にとっては、絶対に、譲れない事項ということを、理解する必要があります。戦争でもやって、徹底的にまけ、日本のようにならなければ、人権問題は、中国共産党にとっては、変えられない事項なのです。ウルムチの強制労働で、ユニクロ、パナソニックとう、多くの日本企業も猛撃されてますが、この日本の企業も、中国は、避難できないのです。日本の企業の経営哲学は、企業採算性の頭しかないのです。人権は、問題外。アメリカに仕方なく、合わせているだけ!中国の人権などどうでもよいのです。人権問題を基本的に考えるなら、まず。中国本土の、人権を解決っすべきです!しかし、これは、アメリカも手が出せないのです。商売をすべて失うからです。
ドイツもそうです。メルケルは、ドイツの車を中国に売り込むために、何度も、中国を訪問してます。アメリカより上なのです。香港は、もはや、共産国でしょう。ウルムチは、どんな人権問題があるか、中国が、公にすることは、未来永劫にないでしょう。

中国の人権問題は、中国の内政問題といって、他国の意見を聞くことは、絶対にない。反乱を起こせば、中国は、天安門事件で示したように、徹底的に弾圧します。

香港は、現在、アメリカの金融投資家が、中国の富裕層をめがけて、どう入り込むかを、チャンスを狙っているそうです。アメリカの農業も、中国が、最大の顧客です。喧嘩はしたくないのです。彼らも、香港も、ウイグルもないのです。トランプもバイデンも国内の利益代表です。言っていることと、やっていることは違う。

私が、中国を見る目。現役時代に、中国と関係しましたが、共産党が、中国を支配している時代、今後も続くでしょうが、深入りをしないこと。残念ながら、日本も深入りしました。今後も付く会わなくては、なりません。悪友、絶対に付き合ってはならない、友達と生活しているのです。トヨタも、日産も、パナソニックも、ユニクロも、日本中が離れられないのです。世界も中国から、離れられないのです。今は!

4.今後の中国

中国は、今が、最高に幸せな時代です。経済は、その国の人口によって、影響を受けます。残念ながら日本は、今後、人口は減ります。中国も例外では、ありません。しかも、中国は、一人っ子政策を、やりました。これが。恐ろしいことになります。人口減少期になったとき、中国国民が、どう動くかです。弾圧だけで済まされるか?弾圧に頼ったら、悲劇的な、最後になるでしょう!

中国創建、70年?になるらしいですが、勝手の日本の指導者は、中國を助けて、国民が裕福になれば、民主かして、話し合える国になると、とんでもない仮説をしてました。これが、誤りと気が付いたのは、ここ数年!豊かになったのは、共産党のお陰と習近平が主張してます。日本の勝手の指導者、松下幸之助、小松製作所の社長、外交官等が居ましたが、残念ながら。間違ってました。中国共産党は、民主国家に対抗する、異質の大国家になったのです。中国は、ますます、彼らが目指す、中華の繁栄を目指して、世界を制する国家を目指します。その時、世界は、耐えられるか?コロナで見るように、独裁国は、異常時に、国民を制御しやすいのです。現在の中国国民が、自分の国が、最高と思っているのは、理解しやすいです。

それに、控え、民主主義国家は、全く、バラバラ。制御不能。しかし、個人の自由を認める以上は、自然です。

民主主義国家群は、共産党国家群、それに同調する国家に、勝てるか?

それがわかるときは。その時は、私は、居ない!みんな、頑張れや!!

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歎異抄を見る

新聞の広告などに、この時代に、歎異抄を読みましょう!とか、広告が出てます。無人島に一冊の本を持ってゆくとしたら、歎異抄を選ぶとか、何となく、気になり本です。21年前に、購入したが、全く、目を通してない本が、2冊ありました。昨年の末に本を整理した時、残しておいた本です。梅原猛の書いた、歎異抄の入門の書です。20年間、落ち着いて、読んでみる機会は、ありませんでした。
このコロナ時代に、やるものがなくなったので、重い腰をあげて、本棚から、引き出して、見ました。

自分では、仏教人であり、真言宗の信徒と思ってますが、ほぼ、無信心者です。しかし、この歎異抄は、浄土宗の本でした。この本を見て、初めて知りました。従って、歎異抄を読むなどと大きなことは、言えません。斜めに見るくらいの感じです。

1.まず、仏教を学ぶ

仏教を初歩的に、学びます。
私的な話で、恐縮ですが、30年前ごろ、インドのマデアプラデシュ州の首都、ボパールに光ファイバ工場を建設の折、近くに、サンチというところがあり、そこに、仏陀のスツーパ(納骨堂遺跡)がありました。仏陀(釈迦)紀元前5世紀にインドの北部、ブダガヤというところに生まれ、シャカ属のお王子さんとして生まれ、その人が、仏教を創設したそうです。釈迦(ゴータマシッダルタ)人生に悩み、ヒマラヤの近くで、瞑想するも、悟りが開かれず、麓に帰り、菩提樹の下で、瞑想して、人間の生き方を悟り、仏陀になりました。その時、釈迦を助けたのが、村の娘、スジャータです。まったく、余談ですが、我々の飲み会の名称です。
それから、紀元全1世紀の中国に伝わり、後漢の時代だそうです。それから、500年、欽明天皇、552年に日本に伝わりました。仏教導入時は、色々、トラブルもありましたが、聖徳太子などの、助けを受け、導入から200年後、天平宝勝4年(752)聖武天皇の時代、東大寺大仏開眼をして、仏教は、日本に定着しました。その後の、最澄、空海の時代です。
最澄は、比叡山に延暦寺を開き、天台宗を創設します。空海は高野山で、真言宗を創設します。2人の宗派は、密教で、真理を知るには、修行が、必要でした。これらは、仏性と戒律がりました。仏になれる人間の資格、仏教にかかわる戒律がありました。

鎌倉時代の仏教は、この問題を大きく変えました。まず、法然、親鸞が、仏は、誰でもなれると、換えます。今までは、修行をした人など、特別な人間でなければ、極楽にはゆけないとなってました。これを”波阿弥陀仏”と唱える、“口誦念仏””こうしょうねんぶつ”を進めました。

この時代、鎌倉時代発祥の宗教は、易行を中心に発展、布教したように思います。日蓮は、題目、”南無妙法蓮華経”を唱える。道元が、座禅です。

この時代は、戒律が、緩められたというか、見直されております。特に、法然、親鸞は、変えられました。どんな宗教にも、戒律の揉んだ愛があります、キリストのモーゼの10戒、仏教にも多くの戒律があります。仏教では、5戒というものがあります。

1.不殺生戒
2.不愉盗戒
3.不邪淫戒
4.不妄語戒
5.不飲酒戒

現在では、こんなもの、守れるわけがありません。しかしこの時代は、もっと、厳しい、戒律がありました。

現在でも、イスラムの戒とか、カトリックの離婚できないとか、戒律だらけです。

親鸞は、3番目の不邪淫戒に相当する、不邪淫戒に相当する戒律を聖徳太子の六角堂で、こもっているときに、観音様があわられて、観音様が、妻帯を許してもらえる、夢を見るのです。大変理解のある、観音様です。ですから、いまでも、観音様は、人気があるのではと思います。

以前は、無目も希望もない時代に、誰でもが、極楽浄土に行かれて、死後は、幸せな生活が送れるという、極楽浄土があるという教えは、魅力的であったでしょう。この極楽浄土を教えてくれたのは、源信恵心僧都(げんしんえしんそうず)という僧で、往生要集という本を書いて、西方にある阿弥陀浄土を宣伝しました。
この、僧が、阿弥陀を信仰して、波阿弥陀仏を唱えれば、極楽浄土に、行けると宣伝していたのです。
これまでの奈良、平安仏教は、国家の安泰のための仏教で、庶民のための仏教ではないのです。平安時代、いわゆる、源氏平家の戦いから、武士階級が生まれ、時代は、変革期にありました、庶民のための、宗教が、この時代に必要とされたんです。

鎌倉時代に仏教は、2つの方向に変革があります。

1つは、南部、奈良等で、戒律復興運動、より従来のやり方を見直し、厳しい方向に行こう。臨済宗と曹洞宗の禅宗の興隆です。現在社会でも、改善運動で、改善が見込まれないと、我々のやり方は、改善が足りないので、もっと、もっとやるべきと主張する人がおります。昔回帰型。

もう一つは、法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗や、日蓮の日蓮宗の開宗へとつながります。まったく新しい方向です。

平安時代まで仏教は、国家や貴族を救済するための仏教でした。平安時代が、高貴な方の救済であったのに対して、時代に変革があった鎌倉時代には、仏教も改革を求められたのです。
そこで、生まれたのか、いわゆる、鎌倉仏教です。現代は、この中で、生きております。

鎌倉仏教は、下記のような宗教を生んでおります。

法然   1175年(43歳)専修念仏による往生を説く 浄土宗
栄西   1191年(53歳)臨済宗を伝える      臨済宗
親鸞   1224年(52歳)本願念仏による往生を説く浄土真宗
道元   1227年(28歳)曹洞宗を伝える      曹洞宗
日蓮   1253年(32歳)唱題目による永遠の救い  日蓮宗

これらの宗教は、最澄が起こした、天台宗比叡山で修学して、そこから離脱して、新しい、宗派を創設したものです。

歎異抄を見るためには、親鸞がどのようにして、誕生したのかを理解するのは、必須の条件なのです。浄土真宗の為の経典が歎異抄なのです。

2.浄土宗、浄土真宗の教えとは

釈迦の誕生は、紀元前5世紀、法然の時代、1175年は、釈迦の誕生後1500年を200年近く過ぎており、釈迦の考えでは、正法、像法を過ぎて、末法の時代と説いております。方丈記を書いた、鴨の長明も末法の思想がありました。釈迦は、この時代は、人が、安寧を生む、悟りを開くには、教、行、証が、必要とあります。
教とは、教えです。行うべき、事項。
行とは、教えの通りに実行すること。
証とは、悟りで、上の2つにより、達成されます。なんでもわかった。もう迷わないということか?

お釈迦様は、この、末法の時代は、教えしか、残っておらず、修行する人もなく、悟る人もいない時代と、予測してます。

もはや、人は、お釈迦様のようになれないと宣言しているのです。もう、お前らは、少ないと時代だと言っているのです。

この時代に生まれた、人々は、絶望の中にいたのです。
法然は美作(みまさか)の国に生まれ、比叡山で天台宗を学びましたが、国家や、エリートは救えますが、庶民、権力のない人、武士(新興勢力)は救えなかったのです。その理論がなかったのです。

法然は、誰でも救われる方法はないか?色々な学者、と言ってもそうですが、当時の仏教指導者、法相宗、華厳宗に学びましたが、解決策はなく、20年を、阿弥陀仏を、経典の中から、見つけ出したのです。

お釈迦様がとかれた、お経は7千余巻あり、何時の時代も、どんな人も救われる法が、説かれている、
大無量寿経
観無量寿経
阿弥陀経

を見つけ出したのです。この時、法然、43歳(1198年)の時です。

法然の教えは、他力の念仏を唱えることです。他力の念仏とは、阿弥陀仏の力のことです。
観無量寿経に3つの心が説かれております。
至誠心
真実の心のこと。真実というのは、心空しくして外見を取り繕う心のないこと。
深心
疑いなく、深く信じること。阿弥陀の名号を唱えれば、必ず往生できると信じること。
廻向発願心
自分が修めた行いをひたすら極楽にむけて、往生したいと願う心のこと。

法然の主著 選択本願念仏集で、これが、守られなければ、念仏も、効果がないと言ってます。

他力の念仏を唱える者は、次の、四修をしたくなる、本当は、やらなければ、効果がないということかも?

四修とは、
恭敬修
救われたら、阿弥陀仏を敬い、礼拝する。
無餘修
私を救いたもう仏は以外はいない、阿弥陀仏を礼拝し、ほめたたえ、念仏をとなえる。
無間修
いつ死んでも、極楽参りを疑わない、死ぬまで、極楽浄土を思い浮かべ、念仏をとなえる。
長時修
命がある限り、上の3つをつづける。

この、3心と4修を持って、念仏をすれば、極楽浄土に行かれる。

易行と言いながら、現在では、結構厳しい修行ではないか?
法然は、末法の世に生まれ、財力や能力のない多くの人は自力の修行による悟りは難しい。
人間の個人としての精神的な救済を、自分の力でなく他力(阿弥陀仏の大いなる慈悲)に求めたのである。

浄土宗と浄土真宗の違いは、元々、法然から、発生しています。浄土宗が、弁長の鎮西派、証空の西山派、親鸞の浄土真宗に分かれてます。
浄土宗の本尊は、阿弥陀如来の木像や絵像ですが、浄土真宗は、南無阿弥陀仏の名号のみが、本尊です。
親鸞の浄土真宗は、阿弥陀仏の約束をかたくなに信じ、生きているときに苦悩の根元を断ち切られて、生きているときに、この世の正定聚の菩薩になり、これが大安心、大満足の絶対の幸福です。そして、死ねば極楽浄土へ行って仏に生まれ変わります。報土往生です。そのために、真の浄土宗であるということで、浄土真宗と言われます。

この浄土宗は、当時、鎌倉時代の民衆の支持を受けました。法然の教えを曲解して、念仏を唱えれば、すべてが、許されるなどとして、他の宗派から、攻撃の対象になりました。かって、修行した比叡山の僧侶らは、法然に責任を取らせようとしました。また、奈良の興福寺をはじめとする、当時の既成の仏教教団は、念仏の停止を天皇に奏上しました。法然に都合が悪いことに、法然の弟子に、人気のある、住連、安楽という、念仏の上手い僧侶がいて、後鳥羽上皇の女官が、勝手に出家する事件が起きました。
1207年、怒った後鳥羽上皇は、自分の女に手を出され、他の教団からも、法然、浄土宗一派を処分するように、奏上されていたので、浄土宗一派を、処分しました。住連、安楽は死罪、法然以下7人を流罪にしました。この中に、親鸞が入ってます。法然は、讃岐の国、親鸞は越後。この時、親鸞は、愚禿親鸞と自分で名前を改めました。1211年、法然も親鸞も赦免になりました。
親鸞は、京には戻らず、常陸の国に行き、布教を始めます。
ここで、20年布教します。ここでの弟子、唯円(ゆいえん)がおりますが、後に、親鸞の教えの誤解を解くために、歎異抄を書きました。
親鸞没後、30年後に、1300年頃に、歎異抄は、書かれました。
親鸞が、常陸の国から、かえって、常陸のでしから、色々は教えが、広がりました。これを鎮めるために、息子、善鸞を常陸に贈りましたが、この善鸞が、自分を守るために、異説を作ったとの話もありますが、親鸞は、息子を断絶しました。これが、善鸞事件です(1256年)。この本は、成立から200年間は、秘密にされました。

3.歎異抄を見る

歎異抄の構成は、次のようになっております。

1.真名序
2.第1条から第10条までー親鸞の言葉
3.別序ー第11条以降の序文
4.第11条から第18条まで―唯円の異義批判
5.後序
6.流罪にまつわる記録

歎異抄を紐解いてみると、確かに、大変、深遠な哲学、信仰が書かれております。たった、18条ですが、1条ごとには、非常に深い、信仰心、哲学があるようです。簡単に、全章を、話すなど、不謹慎と思います。私が、今回、梅原猛の入門書をよんで、一番、びっくりした章だけを、今回は、書きたいと思います。私は、真言真宗の信徒でもなく、新聞の広告から、興味を持ち、しかも、20年前に購入して、読みもせず、積んでおいた本を、整理するために、開いただけです。
日本の仏教を、勉強することは、確かに、楽しいことです。千葉の鋸山にいって、日本寺を知り、当時700年代に行基という坊さんが居て、東大寺の開業に協力して、仏教に興味を持ちましたが、今回は、鎌倉時代の仏教でした。

歎異抄で、有名なのは、3条の善人なをもて、往生をとぐ、いわんや悪人をや。ですが、本願他力の趣旨を理解すれば、なるほどと、思います。以前に、この項は、いろいろ、聞いていたので、そんなに、不思議とも、思いません。今後、時間があれば、思ったことを、記述してみたいと思います。

今回、一番、驚いたのは、13条の阿弥陀の本願と宿業についてです。本文通りではありませんが、ある時、親鸞聖人が、弟子の唯円に、「お前は、私の言うことを信じるか?」とききます。
唯円は、「もちろんです!」
親鸞が「ならば、千人ころしてくれ、そうすれば、往生させてやる!」
唯円は、「聖人の仰せですが、私は、千人どころか、一人も殺せません!」
親鸞は、「人間心に任せて、善悪を判断するなら、善と判断すれば、千人でも、殺すだろう!しかし、お前が、一人も殺せないというのは、善悪の判断ではなく、殺すべき因縁、宿業がないからだ!人を殺せないのは、お前の、心の良さではない!また、殺すまいと思っても、千人でも殺すことがある!
すべて、阿弥陀の本願によって、動かされているのだよ。宿業によるものだ!あなたの心の、善悪の判断ではないことを、知りなさい!!」

私見、自分に与えられた、というより、自分で取得した、知恵で善悪を決め、それをもとに、行動する。自分の力と信じている。
阿弥陀によって、行動は、支配されている。これが、信心か?
宗教の本質かもしれないと思います。

私は、信者ではないので、参考にします。うぬぼれがないように!!

今回は、ここまで。

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日記、経験

2012年、袖ヶ浦公園菖蒲の花

コロナに明け暮れ、何となく、暗い日々を過ごしてますが、5月の末に、久しぶりに袖ヶ浦公園を訪れました。
まだ、菖蒲は早いのかなーと思ってましたが、5月28日、水泳も休みなので、家内と散歩してみました。
なんと、菖蒲は、満開でした。アジサイは、まだ、つぼみでした。

1.菖蒲園の全体を見る

袖ヶ浦公園の菖蒲園は、昨年の冬から、植え替えの工事をしてました。そんな訳で、今年は、期待できないかなーと思ってました。

袖ケ浦公園の上、上方面から、全体を見ます。菖蒲も見えますが、スイレンは手前ですが、まだ、花も見えません。
菖蒲園の中央です。奥にレストランがあります。
5月の下旬ですが、今年は今が、一番きれいでは!
ここは、古い株
種類は、色々ですが、詳しくはない??
なんとなく、白は、この季節に合う

2.睡蓮

以前は、スイレンも、蓮もありましたが、消えてしまいました。7月頃は、スイレンが綺麗でした。今は?

寂しい限り??

この辺では、富津公園が綺麗と思います。5年前くらいは、蓮とスイレンのほうが、菖蒲より、綺麗でした。

3.アジサイ

あと、1か月くらいで、紹介できると思います。今日は、まだ、蕾でした。池の鳥は、一匹もいなくなりました。