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日記、経験

渋沢栄一と古河市兵衛

江戸末期、第11代将軍、徳川家斉の時代、古河財閥の創設者、古河市兵衛は、京都岡崎に、代々庄屋を務めたが、落ちぶれた木村長右ェ門とみよの次男として、生を受けました。時は、天保3年3月16日、1833年4月16日 天保の大飢饉、天保4年から10年まで続いた、大飢饉でした。江戸幕府が大政奉還をして、明治が始まるまで、35年前に生まれたことになります。
一方、渋沢栄一は、天保11年2月13日、1840年3月16日、埼玉県深谷市血洗島に、渋沢市郎右衛門元助,母エイの長男として、生を受けました。古河市兵衛の方が、9歳上になります。
もう一人、古河市兵衛が、養子にした陸奥潤吉の親、陸奥宗光は、天保15年7月7日、1844年8月20日和歌山県和歌山市吹上で、伊達宗弘と政子の6男として、生まれます。伊達政宗の後裔と伝えられております。1867年に坂本竜馬の海援隊にはいり、竜馬の信頼を得ております。

小生が、お世話になった、古河財閥の会社で、入社時に教わった、古河市兵衛の話を思い出しながら、と言っても、56年前の話で、ほとんど覚えてませんが、渋沢栄一との関係は、多少、記憶に残ってます。色々、文献を調べながら、記述してみます。

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1.古河市兵衛の歩み

嘉永2年(1849年)市兵衛が16歳の時、叔父の鴻池屋伊助典で、叔父を手伝い、借金の取り立てを手伝うが、この店がつぶれ、叔父の紹介で、京都小野組に番頭、古河太郎左衛門の養子となり、古河市兵衛と改名した。安政4年1857年、27歳の時であった。市兵衛は、生糸の買い付け等を行ってましたが、太郎左衛門のが、その才能を見つけ、小野組での地位を高めてゆきました。

この小野組は、陸羽の物産と上方の物産を交易していたとされております。安政5年、1776年に幕府の金銀御為替御用達になります。この資金を流用して、商売を大きくしました。
慶応4年1月には、明治政府は、出納所御為替御用達に任命されました。
1871年、明治4年の廃藩置県以来、三井、島田、小野組の3家は、公金の収支に従事していた。小野組は為替方であることにより、多額の金を無利子(政府から、特権としてこの権利を与えられていた)で運用して、生糸貿易、東北地方の鉱山経営に、着手した。生糸取引は、市兵衛が総括していた。
1872年、明治5年に渋沢榮一の仲介で、三井組と共同で「三井小野組合銀行」「第一国立銀行」を設立します。

しかし、1874年、明治7年、政府の為替方に対して、担保額の引き上げなど、一方的な金融政策の急変により、小野組は御用御免を願い出て、資金全部を大蔵省に提出して清算し、その後解散した。
政府からの引き上げ金の減額などを頼みに、陸奥宗光に談判に行き、宗光に気に入られ、宗光の次男、潤吉を養子にもらうことになる。この時、大蔵省では、陸奥が、局長、榮一が課長でした。
また、小野組とが設立した、渋沢榮一が経営する第一銀行に対して、連鎖倒産を防ぐために、倒産した小野組の資産や資材を提供した。さらに、市兵衛の資産も、提供した。この関連の行動が、渋沢榮一に市兵衛の信頼感を植え付けた。

2.古河市兵衛鉱山をはじめる

小野組破綻後、市兵衛は独立して、事業を始めます。明治8年、1875年、草倉鉱山(新潟県東蒲原郡)の払い下げにせいこうします。草倉鉱山の経営は、順調で、明治10年、1877年に鉱山業に専念する決意をかため、足尾銅山の買収を決意します。
現在の古河機械金属。
足尾銅山の共同経営者として、志賀直哉の祖父、志賀直道、渋沢榮一が、参加した。
当時、足尾銅山は、江戸時代を通じて、無計画に採掘がおこなわれた結果、旧抗ばかりの生産性の極めて低い状態にあり、再生の可能性は、低いと判断されていた。
しかし、市兵衛は、足尾銅山不振の真の原因は、計画的な深鉱、採鉱が行われていないと見抜いた。
買収当時、鉱山は、経営は、悲惨な状況で、採掘の現場を仕切っていた山師を3人も変えたが、改善されず、甥の木村長兵衛を投入した。彼は、当時20歳の青年であったが、明治14年、1881年に大鉱脈を掘り当てた。その後も、立て続けに大鉱脈を掘り当てて、日本を代表する大銅山のなった。
しかし、この発展が、日本の公害問題の原点ともいえる、鉱毒問題になる。
明治17年、1884年、精銅品質向上による輸出拡大と、銅加工品の生産による国内市場を目指して、本所溶銅所を開設、これは、後の古河電気工業にと発展する。

3.人徳とは

小生の話で、恐縮ですが、サラリーマンになって、10年くらい経たころ、当時の社長から、会社にも人徳がある、それに、社徳というものと訓示されました。当時、人徳も社徳もわかりませんでしたが、後日、不景気になり、会社の業績が悪化した時に、資材の供給をお願いしていた会社に、多量の発注して、これをキャンセルしなければならないことが、ありました。いままで、何とか、この量を確保してくださいと、お願いベースですが、突然、
ゼロにしろとろ、との命令です。経営的な観点からは、理解できます。問題は、そのとき、上司が放った言葉です。

社徳なんて、どうでもよい!

古河市兵衛は、この反対です。渋沢榮一にも、陸奥宗光にも慕われた人徳があったのではないか!!
人間も、会社も、困ったときに。格が現れる。

今回発行される、1万円札は、渋沢栄一の肖像が、乗るそうです。渋沢榮一の肖像をみたら、古河市兵衛をおみ起こしてみてください。市兵衛は、人徳があった。

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「渋沢栄一と古河市兵衛」への6件の返信

城山三郎著の渋沢栄一を題材にした本に、その時代の大物たちがわんさか出てきて、古河市兵衛の名前を見た時うれしくなりました。新しい時代を切り開いた先駆者のひとりだったのか、と。そして高品さんのおっしゃる『人徳』あればこそ、の活躍だったのだと思います。誰からも愛される渋沢栄一と交友関係にあった古河市兵衛ももちろん、才気ある、人情が厚い人だったんだろうなぁと思います。たしか大倉商事も出てきましたが、古河との関係はこの時からだったのかな。

このblogのコメント1号が、秦さんで、感謝します。ところで、1月20日にまた、広告の制限を受けました。また、3か月くらい広告ができないと思います。理由は、不正なトラフックということです。
これは、Blogの広告を頼んではいけないということらしいです。お願いしたのは、本田さんと、秦さんだけ。
要は、ブラックリストに載っているみたい。当面、私のブログの広告は、開かないで見てください。Blogを閲覧することは、全く問題ありませんので、広告は、開く必要はありません。adsenseは、あまり、利益になりません。まー、Blogを楽しみましょう。結構面倒な話です。収益を得ようとしている、卑しい考えが、ダメかも!!

秦さん

誤解の内容に言っておきますが、Blogを閲覧することは、全く問題ありません。広告をクリックすることが問題のようです。blogは今後も書きますので、是非、閲覧してください。
コロナで、取材が出来なく、残念ですが、課題を見つけますので、読んでください。

(笑)(笑)広告クリックは避けますね。
コロナ、オリンピック、バイデン大統領、菅首相、核問題も?話したい事たくさんたまりましたね。あぁーーーーーー。
メイプルシロップのはなしが楽しみ!

高品さん、私は一度もブログの広告をクリックした事はありません。たしかに秦さんにはクリックしないと収入にならないとは伝えました。したがって、他にも広告をクリックした人がいるのでは?と思います。高品さんが今、考えているようにAdsense は無視して中身のあるブログを書かれるのがよろしいかと思います。

本田さん

今回は、1月20から2月4日まででした。投稿が、多くならないと、すぐに、不正なトラフィックと判断されるようです。

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