千葉で生まれて、育った小生は、子供のころから、鹿野山は、聞き覚えた場所です。これまで、何度かは、訪れたことがありますが、桜並木があったことぐらいしか、記憶にありません。今回、Blogを初めて、是非、訪問したいと思ってました。
今回、コロナの影響で、色々、制限がある中で、偶然に機会がありましたので、鹿野山を訪ねました。歴史のある神野寺とか、九十九谷を訪ねたいと思いました。また、ここ1,2年前に知った、阿久瑠王のことも知りたいと思いました。千葉、房総半島は、昔は、未開の地と思って育ちました。80歳間際になって、歴史を勉強してみると、とんでもない間違いと、気が付きこの頃です。しかし、疑問に思うこともたくさんあります。死ぬまでに、色々、調べて、書き置きたいと思います。
1.鹿野山
この地図は、google mapを加工して、小生が作った地図です。
鹿野山までの地図は、色々、調べられると思います。神野寺、九十九谷、白山神社、阿久瑠王塚等、他に、春日神社等色々あります。特に、神野寺は、おおくき、私の準備不足で、半分しか見学できませんでした。大きな、お寺です。この地域は、古代の房総半島、安房、上総の伝説がいっぱい詰まってます。ヤマトタケルの尊関連の伝説が、いっぱいです。中世は、源頼朝の歴史ですが、この時代は、ヤマトタケルです。鎌倉時代は、日蓮上人の歴史です。清澄山。ここは、後日、訪問したいと思います。
2、ヤマトタケルの尊(ミコト)
ヤマトタケルの尊は、東京湾の沿岸で育った私にとっては、子供のころから、馴染んだ、言い伝えが、沢山あります。この、袖ヶ浦そのものが、ヤマトタケルの妻、オトタチバナ姫の袖と聞いておりました。
ところで、ヤマトタケルとは、どのくらい、古い人であったか、勉強したこともありませんでした。この、コロナ騒ぎで、十分時間がありましたので、調べてみました。
ヤマトタケルの尊は、第12代天皇景行天皇の第二皇子,小碓皇子と呼ぶそうです。この皇子は、乱暴者で、兄をす巻きにして、殺してしまった。父親の景行天皇は、この尊を、色々な、征伐に使いました。九州の熊襲征伐が終わり、東国の平定に向かわせるときに、さすがの尊の弱音を吐き、伊勢の斎宮王(天皇の娘の未婚の人)を、訪ねました。その時、斎王は、尊に、草薙の剣とひ火打石をを袋に入れて、これを困ったときに開けなさいと言って、東国に向かわせました。これが、焼津の野で、火をかけられたときに、草薙の剣と、火打石で、逆火を離して、難を逃れます。
神奈川県の三浦半島から、房総半島に渡ろうとしたとき、横須賀の走水で、房総半島を見渡し、東京湾を馬鹿にして、「こんな小さな海など、一跨ぎ」とバカにしました。海神の逆鱗に触れて、船は、沈没する寸前でしたが、オトタチバナヒメが、海を鎮めるために、東京湾に身を投じます。おかげで、海は静まり、尊は無事、房総半島にわたることができました。古より、東国にわたるには、東京湾を渡ることが、主ルートでした。東海道は、昔の街道で、神奈川からは、安房、上総、下総を通るのが、メーンルートです。昔から、この時代は、江戸は、東京湾が、日比谷あたりまで、進出していて、沼地、浅海だったのです。
この時、オトタチバナヒメは、亡くなりましたが、東京沿岸に、オトタチバナ姫と尊の伝説が、多く残りました。
ヤマトタケルの尊が、房総半島に上陸してから、房総半島で戦ったのが、阿久瑠王です。
この阿久瑠王が、住んでいたのが、鹿野山近くの鬼泪山(キナダヤマ)です。鹿野山には、九頭龍が、住んでいたとの伝説があります。尊は、この九頭龍と戦いました。疲れた、尊は、眠ってしまって、九頭龍に飲み込まれますが、目が覚めて、龍の腹を破り、助かります。この、龍が、九頭龍権現として、鹿野山神野寺に、鎮座してます。
この、龍が、阿久瑠王では、ないか?阿久瑠王は、君津市の六手というとこに住んでいたようです。今この名前は、残ってます。
阿久瑠王の墓は、上の地図にあります。
阿久瑠王の伝説は、江戸から明治の時代に造られたと、文献に出てました。
ところで、ヤマトタケルの時代は、12代景行天皇の時代とあります。歴史区分では、弥生時代、BC392年から270年時代の想定です。その中で、景行天皇の時代はBC29年から、131年と推定されてます。信頼度は、かなり低いと推定しますが、ほぼ、この時代、キリスト教が発生した前後です。当然日本には、まだ、文字文化は、無かったと思います。古事記とか、日本書紀が書かれた時代に、記録されたものですので、これくらいの誤差は、許されるべき範囲でしょう。
270年くらいから、はじまる、古墳時代(仁徳天皇)に比べると大きな古墳があること自体が、不自然でしょう。阿久瑠王の塚くらいが、妥当か?
阿久瑠王の伝説は、2,3年前に、JRの駅で、「あなたは知ってますか、阿久瑠王の伝説を!」と内房線の広告でみて、そんな話があるのかと思ったくらいです。無知な私にとっては、びっくりするような、話でしたが、その後、調べてみると、多分、このような話は、日本国中にある話、伝説ではないかと思いました。
3.仏教伝来
鹿野山神野寺を述べるためには、私は、仏教の伝来を調べるざるを、得ません。聖徳太子が、創建したお寺を、歌っているからです。
日本への、仏教伝来は、古墳時代の28代宣化天皇3年、538年、又は、第29代欽明天皇13年、552年が、あるが、前者の、538年が、定説になっているそうです。百済の聖明王が、釈迦仏像や経論を朝廷に贈り、仏教が公伝された。公伝とは、正式に、国に、正式に贈られること。第31代用明天皇2年(587年)に、大王の仏教帰依について、大連・物部守屋(排仏派)と大臣・蘇我馬子(崇仏派)との対立が激化したが、その後厩戸皇子(聖徳太子)が、蘇我氏側につき、武力抗争の末物部氏を滅ぼした。物部氏を滅ぼしてからは、蘇我氏が、大臣として、権力を握った。崇峻天皇元年、588年蘇我の馬子は、聖徳太子と協力して、日本最古の寺、飛鳥寺を、596年に、8年の歳月をかけて、完成させました。建設当初の名称は、法興寺(ほうこうじ)でした。710年に元明天皇が都を飛鳥から、奈良に遷都した時、飛鳥寺の本体は、元興寺(がんこうじ)と名称をかえ、本尊は、飛鳥大仏として、明日香に残りました。
聖徳太子は、物部氏との闘いに勝つために、四天王を安置する、祈願をしました。見事に、勝利したので、593年(第33代推古天皇元年)に四天王寺を完成させました。
4.法隆寺
法隆寺は、用明天皇が自らの病気平癒のため、設立を祈願しましたが志を半ばで、崩御したために、遺志を継いだ、推古天皇と聖徳太子が、推古天皇15年、607年に、設立したそうです。
太子ゆかりの寺は、斑鳩寺、太子設立7大寺、河内3大子等多くのお寺が、太子を名乗ってます。
5.鹿野山神野寺
神野寺縁起によりますと、推古天皇6年(568年)聖徳太子の開山により,始まったとあります。鹿野山は、当山の山号であり、太子が、当寺を設立するとき、野生の鹿が沢山集まったことから、お釈迦様の初転法輪地、鹿野苑にちなみ、山号を鹿野山と名付けた寺院です。現在では、熊野峰(鹿野山神野寺)、白鳥峰(白鳥神社)、春日峰(春日神社)の3峰を総称して、鹿野山と言われております。第55代文徳天皇元年、857年、平安時代ですが、慈覚大師が、再興しております。平安、鎌倉時代は、天台の道場として栄えました。
その後、数回の再興がなされておりますが、大正6年(1917年)9月30日の台風で、大きな被害を受けましたが、その後再興しました。
現在は、真言宗智山派(総本山が知積院、大本山が、成田山新勝寺、川崎大師平間寺、高尾山薬王院に属しております。
九頭龍権現堂とう、見落としました。宝物館は、修理中でした。
道場は、別の入り口があるようで、見落としました。
縁起とおり、推古天皇6年、598年に聖徳太子によって開山されているとすると、上総の国は、当時でも、相当進歩的な、場所だったか!房総半島でも、立派な、寺院ではないか!!
6.白山神社
神野寺から、1kmくらいのところに、白山神社があります。
8.九十九谷
この展望台から、房総丘陵が見渡せます。
マザー牧場は、この鹿野山の東京湾側にあります、鬼泪山(きなだやま)です。
「鹿野山をたずねる」への6件の返信
高品さんの記事とは直接関係ありませんが、その昔神野寺で飼っていたトラが逃げ出し大騒ぎした事件を思い出しました。ネットで調べたらやはりトラ脱走騒動はあったのですね。
そうです。昔、トラの問題があったお寺です。聖徳太子が開山したとは、信じられませんが、伝説は生きてます。弟が教えてくれたのですが、阿久瑠王の講演会が、神野寺の近くのホテルであるようですが、なんとなく、空々しい。日本国、どこでもある話。近日中に、館山の寺院を調査したいです。
髙品
阿久瑠王は初めて聞く名前だったのでさらに調べたら下のページに
行き当たりました。オトタチバナヒメは名前は知っていました。高品さんは亀山の能褒野と日本武尊と縁ありですね。
http://archives.kimitsu.jp/InfoLib/Material/2019/05/31/sub12.html
読ませていただきました。素晴らしいです。
千葉県民として必修科目ですね。私も歳をとったせいか、歴史に興味を持つようになりました。都築が楽しみです。
吉田さん
返事が遅れて申し訳ありません。ヤマトタケルの犯行した、話は全国にあるようです。この話も江戸末期に造られたようです。
チバニアンに行きたいのですが、下男の身、許可がなくなかなかできません。
吉田さん
返事が遅れて申し訳ありません。ヤマトタケルの犯行した、話は全国にあるようです。この話も江戸末期に造られたようです。
チバニアンに行きたいのですが、下男の身、許可がなくなかなかできません。